1ドル162円。1989年以来という水準を前にすると、「日本が衰退しているからだ」「財政が心配されているからだ」という説明が自然に見えてきます。田中泰輔氏は、その説明に飛びつく前にやるべきことがあると言います。金融の理屈で説明できる部分をまず取り除き、残った分だけを日本固有の問題として考える――順序の話です。
2026年7月21日開催の田中泰輔のマーケットゼミ質問会では、円安をこの順序で三層に分けて読み解く視点が語られました。
第一層:金利差、そして金利差だけでは足りない部分
140円、150円と進んだ局面では、米国の金利が高く、円安は金利差でほぼ説明できました。ところがその後、日本の金利も上がってきています。金利差だけで評価するなら、150円を割っていてもおかしくない――にもかかわらず、そうならない。
田中氏は、この差分に地政学を含めた「ドル高」の要因を置きます。円が弱いというより、ドルが強い。実際、円はユーロや韓国ウォンに対しては安くなっていない場面がある。日本で起きている現象を日本の事情で説明しなければならない、という圧力がかかると、この視点が抜け落ちます。
加えて、円はいまも世界的にキャリートレードの通貨として定着しています。何か買いたいものがあるとき、まず円を売って資金を作る。新興国の高金利通貨を買う場面でも、ドルより金利の低い円が調達通貨に選ばれやすい。円売りが構造的に起こりやすい土台が、そこにあります。
第二層:脱デフレで、緩和の効果がいま効き始めた
ここからが、田中氏がとくに重視する部分です。
デフレの時代、日本には奇妙なねじれがありました。異次元の金融緩和で大量の資金が供給されても、個人は「投資しても仕方ない」と現預金を抱え込んだ。経常黒字なのにお金が外へ出ていかず、結果として円高になりやすかったのです。
それがインフレに転じると、前提が反転します。持っているだけでは目減りする、という環境になった瞬間、抱え込まれていた資金が動き出す。名目成長率が高まって投資機会も増える。つまり、それまで積み上げてきた金融緩和の効果が、ここにきてようやく効き始めた――田中氏はこのプロセスに入ったと見ています。
しかも、日本の政策金利は利上げを重ねてなお、中立金利に届くかどうかという水準です。依然として緩和的であることに変わりはない。緩和的な状態の資金が動き出すのだから、円安も株高も進みやすい。これは国内の資金の力として説明できる部分であり、「日本がダメだから」ではありません。
第三層:新NISAという、国策としての円売り
三層目は制度です。新NISAは、国策として投資を優遇する仕組みでした。そして実際に買われたものの大半は、米国株指数や全世界株式といった海外資産です。
海外資産を買うには円を売る必要があります。つまり新NISAは、構造的に円安を後押しする制度でもある。田中氏は、脱デフレで円安になりやすい地合いに、国策としての円売り圧力が上乗せされた形だと整理しました。
一見すると国内株の支援になっていないように見えますが、円安が進めば日本株は上がりやすい。回り回って日本株高の支援策にもなっている、というのが田中氏の見方です。
「日本の財政懸念」説はどこまで正しいか
もちろん、日本固有の要因がゼロだと言っているわけではありません。田中氏も、人口動態を含めて日本が劣勢にあることは否定しません。
ただし、「財政への懸念が高まっているから円が売られている」という説明については、検証を促します。もし本当に財政不安が主因なら、日本国債の信用リスクを示す指標にそれが表れるはずです。しかし現状、そこは相対的に抑えられている。まず金融的に説明できる部分を差し引き、そのうえで残った部分を日本の問題として考える――この手順を踏まないと、耳あたりのよいストーリーに流されてしまいます。
ポジションマター:上にも下にも大きく振れうる
最後に田中氏が示したのが、需給、つまりポジションの偏りです。
いま海外勢は円売りポジションを膨らませています。一方、日本の個人投資家は逆張り志向が強く、「どこかで介入があるはずだ」という読みから160円台で円買いポジションを積み上げている。両者が真っ向から対峙している状態です。
この構図から、よく語られる読みはこうです――仮に介入があっても、円高に振れたところで個人が利益確定売りを出すため、円高はそれほど進まない。ただし田中氏は、逆の展開も同じくらい起こりうると指摘します。当局の立場に立てば、海外勢を踏み上げたあと、さらに一段の介入で円高を進め、今度は個人が損を抱える水準まで持っていくこともできる。
そして逆方向も同様です。海外勢の円売りに個人の円買いが押し潰されれば、損切りを巻き込んで164円、165円、167円と一気に進む展開もありうる。そこへ介入が入って一気に150円台へ押し戻される――こうしたシナリオが具体的に描けてしまうほど、ポジションは積み上がっている、というのが田中氏の警戒です。
田中氏は、為替は金利で説明できる部分、国際収支で説明できる部分、貿易収支で説明できる部分、そして単なるポジションの偏りとして起こる部分が重なってできていると整理しました。だから、ひとつの理屈だけで方向を決め打ちしてはいけないのです。
この記事のまとめ
- まず金利差で説明できる部分を確認する。円安というより「ドル高」の側面が大きい。
- 脱デフレで資金が動き出し、それまで積み上げた金融緩和の効果がいま効き始めている。
- 新NISAは買い付けの大半が海外資産で、構造的な円売り要因になっている。
- 財政懸念説は、信用リスク指標が相対的に抑えられている点と突き合わせて検証する。
- 海外勢の円売りと個人の円買いが対峙し、ポジション要因だけで上下どちらにも大きく振れうる。
為替の説明は、いつも「わかりやすい物語」に引き寄せられます。説明できる部分を順番に差し引いていく――この地味な手順が、決め打ちを避けるための最も確実な方法です。
本記事は、2026年7月21日開催「田中泰輔のマーケットゼミ 質問会」で語られた考え方を抜粋・整理したものです。1テーマに絞っており、質問会全体の内容は講座でご覧いただけます。